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1月17日の記憶(その3)

1995.1.20(金)

この日、筆者は大阪方面で様々な救援物資の購入などを行っていました。

本来、大阪市内のコンビニやスーパーなどに振り分けられるはずの食料品や飲料水、弁当などはすべて神戸方面に割り当てられていると言うことだったので、被災地では当面の食料などは確保できるだろうと思っていましたが、問題は配給された食品を調理したり、暖を取ったりする燃料だろうと考えました。

このため、カセットコンロ本体とボンベの他、キャンプで料理用に使う固形燃料やボンベ(アウトドア好きの方ならご存じでしょうが、小さい割に火力はものすごく強いです)も購入していました。
案の定、翌日作業場所の同僚に尋ねたところでは、燃料などが切れていたところだったので非常にありがたかったとのこと。お遊びながら、学生時代に野山をうろうろしていた経験が役立ったのでした。


そしてこの日、ずっと連絡が取れなかった神戸方面のメンバーが、自力で大阪まで出てきました。
聞くところによると、地震当時住んでいた神戸から西宮まで歩き、そこから開通したばかりの阪急電車に乗って出てきたとのことでした。
神戸から西宮までは約20kmあり、歩いて5、6時間かかったと思いますが、ともあれ最も心配していたメンバーの無事な顔を見られて一安心したものでした。

その日、彼らは大阪市内のホテルに宿を取ったのですが、着の身着のままで出てきているので、着替えや生活必需品などが問題でした。
いちおう、筆者も自分のものを持ってきてはいたのですが、何せLLサイズのシャツが合うメンバーはほとんどおらず、結局大阪市内でなにがしか手当をつけたのでした。


その日、テレビの天気予報では、神戸方面の天気は下り坂で雨になるだろうと伝えていました。
ただでさえライフラインが寸断され暖さえもとれない状態なのに、冬の寒い中がれきの下敷きになっている人たちもいるだろうに、自然は何というむごいことをするのだろうと思ったものでした。

スイスから派遣された「救難活動犬」、フランスをはじめとする各国から派遣された災害対策特殊部隊などの活躍もあり、新たな生存者が何名も救出されたというニュースも伝わってきましたが、何せ地震発生から4日も経過していて、これ以上救出が遅れたら生存しているだろう人でも命の危険があります。
とはいえ、建物が倒壊しているので下手に重機も入れないようですし、何とか人海戦術で救出するしか手は無かったようです。

それにしても、各国の対応の早さとツボを抑えた対応には、本当に感心しました。
とくに「救難活動犬」など、日本人の日常生活からはまったく考えもつかない発想だったわけで、本当の意味での「リスク管理」がでてきている国のすごさというものを、改めて思い知った次第でした。
 

 
その後
 
震災当時ずたずたに寸断されていたライフラインは、大阪ガスさん/関西電力さんに加え、全国のガス会社/電力会社から応援部隊が次々と被災地に入り、作業員の方々の連日の徹夜作業の結果、予想以上のスピードで復旧していきました。

筆者も震災の翌週くらいから西宮の作業場所に復帰したのですが、通勤途中、懸命に作業している遠隔地の電力会社やガス会社の方の姿を見かけ、すごく打たれるものがありました。
こう言っては不謹慎ですが、自分の会社の仕事でもないことのために遠く九州や北海道、東北から駆けつけ、被災地のために徹夜で復旧作業をやっておられたわけですから。同じ民間企業に勤めている自分と照らし合わせると、本当に頭の下がる思いでした。


震災直後から、大阪市内のコンビニやスーパーに割り当てられるはずの食料や飲料水はすべて神戸方面に振り分けられていたので、逆に大阪方面では食料品などがほとんど手に入らない状態が続いていましたが、二週間ほどたってやっと大阪市内でも食料や飲料水がまともに手にはいるようになりました。

そんな中、被災地では足下を見て大根一本3,000円で売ろうとしていた八百屋が激しい非難を浴びる一方、大阪からありったけの野菜を積んで、被災地でタダ同然の金額で売っていた八百屋が感謝されたり....と、人間の裏表の部分をかいま見るようなエピソードも耳に入ってきました。
結局、大根一本3,000円で売ろうとしていた八百屋は震災後程なくつぶれてしまったと聞きますが、商売とはそんなものなのでしょう。

なんだか去年の春に見かけた、某大手ネット通販企業の、品格のカケラもない仕業を思い出してしまいました・・・


あと、地震の揺れの影響で横倒しになった筆者の作業場所のホストコンピュータですが、人手を使って引き起こし冷却水をバケツで組み入れて動かしたところ、何とちゃんと動きはじめました!(@_@)
パソコンなどを使っていると非常にもろい印象のあるコンピュータなのですが、意外と頑丈にできているものだと感心したものでした。

結局、コンピュータシステムが止まっていたのは2、3日間だけで、あとは何の問題もなく正常稼働していたのでした。それでも、2、3日間システムが止まっていた影響は大きく、被害が小さかった事務の方は毎日遅くまで残って仕事されていました。

その当時はまだWindowsも3.1の時代で、オフィス内にもパソコンなどはほとんどありませんでしたから、そのあたりの業務を手作業でやっていたのが救いだった部分があります(Windows95が発売されたのは、その年の秋口のことでした)。

現在のように一人一台の状態でパソコンが据え付けてある状態では、パソコン1台に格納されているデータが多いですから、いざというときの被害も結構深刻になるかもしれませんね。


 
最終的に、阪神淡路大震災での死亡者は6,434名、行方不明者3名、負傷者43,792名(Wikipediaによる)という戦後最悪の被害をもたらしたのですが、これをきっかけにして下記のような動きが起こりました。
・一般の人への防災意識が高まる(防災グッズが売れ、避難訓練の質も変わってきた
・自治体内の情報連絡網が整備されると同時に、リスクを考慮した対策が講じられはじめた
 自衛隊や他の自治体への連絡体制も整備された
・保険、特に地震保険の加入率が増えた
 →地震保険に加入していない場合、地震をきっかけに発生した火災は補償されないためです。
  けっこうこれは問題になりましたが、事前にきちんと説明していなかった損害保険会社も問題がありますよね!
・地震や火山噴火を事前に予測し、少しでも危険性があれば住民を避難させることができるようになった
・ボランティアや地域の人々のつながりがクローズアップされ、活発になった


いずれも、今考えると当たり前のことかもしれませんが、これらのことが15年前まではほとんど認識されずに、結果的に被害を大きくしてしまった部分があったように思います。
上でも少し書いたように、あの震災があったからこそこのような動きが出てきたわけですが、それでも支払った代償はあまりに大きかったような気がします。


あともう一つ残された問題として、「被害者対策」があります。
阪神大震災の時に被災者が受け取れたお金は、最大でも200万円前後(自宅全壊の場合)だったと聞きます。
自治体側は被災者住宅を用意してくれたものの、数は十分ではなく、当然ながら200万円では新しい家も建てられないで、相当苦労された方が多いと聞いています。

実は筆者、その後2000年の「鳥取沖大地震」も(大阪でですが)体験したのですが、そのときは県知事の英断で、被災者1人につき500万円を超える援助金が出たのだそうです。
これは、ひとえに
 「住民が安心して住める町作りのためには、まず住民の安定した住居を確保すべき」
という、当時の片山・鳥取県知事の英断に寄るところが大きかったのですが、これに対して阪神大震災は、いくら被害が大きかったからとはいえ、もう少しまともな対策ができなかったものかと思います。


以上、大変長くなりましたが、筆者が覚えている限りのことをすべて書き出してみました。
実際に被害に遭われていない方がご覧になるケースがほとんどだと思いますので、実際にああいった大規模な天災が起こった場合にどうなるのか、どういう対応を取ればいいのか、普段から何をしておけばいいのかを考える参考にしていただければと思います(v.v)




1月17日の記憶(その2)

1995年1月18日(水)
 
この日も、朝から会社の同僚の安否確認を行っていましたが、被災地付近に住んでいた2、3名から連絡があり、何とかほっとした瞬間がありました。

また、各駅停車扱いではあるものの、比較的被害の少なかった阪急電車が、大阪-西宮の区間に限って明日から運転を再開するとのこと。
このときまで筆者の当時の作業場所とは全く連絡が取れない状態でしたし、何より近辺に住んでいるメンバーと連絡を取り合う手段もありませんでしたので、このニュースには本当に安心しました。


被災地に住んでいるメンバーに持っていくのに何がいいかを検討した結果、「まずは水と食料」という結果に落ち着いたので、早速近辺のコンビニなどを回りはじめました。
ところが、さすがに誰もが同じことを考えているようで、大阪市内のコンビニではほとんど飲料水・食料は売り切れ状態でした。それも、パン等ならまだしも、手間のかかるインスタントラーメンやレトルト食品の棚もすっかり空になっていました。

ひょっとしたら、余震のことも考えて大阪市内の人が買い占めていた部分もあるのかもしれませんが、ともあれ7、8カ所まわって2リットルの飲料水が3、4本しか入手できませんでした。食料に至っては、自分たちの昼食分も確保できない状態です。

と、ここでひらめいたのが
 「ミネラルウォーターだったら、水割り用のものを売っている酒屋に行けばあるのでは?」
ということで早速近所の酒屋に行ったら、案の定10リットル入りのパックをいくつか購入することができて幸いでした。
(さすがの酒屋でも、筆者らが購入したもので売り切れだったみたいですが)


この日も、テレビでは通常の番組をすべてつぶして、被害状況などを伝えていましたが、この日の段階で、死者千名あまりと、日増しに被害が広がっているようでした。

そして何より驚いたのが、神戸・元町の繁華街の惨状でした。
阪神電鉄・三宮駅をはじめ、かなりの数のビルが壊れたり倒れていて、神戸市役所に至っては途中の階がつぶれて完全になくなっていました。
道路にはがれきが散乱し、かつての華やいだ神戸・元町の姿はどこにもありませんでした。
 
 
 
1995年1月19日(木)

この日から阪急電車が一部区間で通じるとのことで、大阪方面で動けるメンバーでミネラルウォーターや食料を抱え、当時の作業場所だった兵庫県西宮市に向かうことになりました。

兵庫県西宮といえば、この大震災で最も震源地に近い場所の1つだったわけですが、そこに向かうには正直かなりの抵抗がありました。
その日の時点で、死者は二千名以上になるという報道がなされていましたし、何よりテレビでさんざん惨状を伝えられていた時のことです。被災者の方の心情などを考えると、被害も何も受けなかった奴が軽々しく被災地に行っていいものかどうか、かなりの葛藤がありました。

とはいえ、連絡が取れず残っているメンバーのこともありますし、何より「現実」は自分の目で実際に見ておいた方がいいだろうと思い、あえて行くことにしました。
平常時、阪急電車の大阪・梅田駅から西宮北口駅までは、阪急電車の特急で20分くらいで行けるのですが、当時は各駅停車ということもあり、1時間以上かかった記憶があります。

やはり筆者らと同じようにミネラルウォーターや食料の入った袋を抱え、会社の同僚や親戚のところに向かわれる方で、列車の中はかなり込み合っていました。


いざ被災地に到着して、想像以上の被害の大きさにあ然としました。
一戸建て、集合住宅に関わらずほとんどの建物が崩壊していましたが、立て残っている建物も塀が崩れ落ちていたり、壁に大きな亀裂が入っていたりしました。
筆者自身経験はないものの、爆撃を受けた後というのはこういう状態だったのではないかと思わせるほど、倒壊した建物があちこちに目立っていました。

特にショックだったのは、阪急・西宮北口駅からほど近い、鉄筋コンクリートで非常に頑丈そうな外見のマンションが、見るも無惨に傾いていたことでした。
1階を駐車スペースにしている家では、ほとんど一階部分がつぶれていたのですが、一階からきちんと鉄筋コンクリートの柱があるマンションで、一階の半分がつぶれるような形で傾いていたのです。
建ってからさほど時間のたっていない建物だっただけに、「鉄筋コンクリートは地震に強い!」という世間一般の常識を完全に覆すことでしたし、「仮に自分があの建物の中にいたら」ということを考えると、背筋が寒くなる思いがしました。


当時の作業場所に向かう道のりでは、震災直後でさまざまな救援物資や、救急処置が必要な人などを運ぶ必要もあったでしょうに、道路はどこかに向かう自家用車で大渋滞でした。既に大阪方面では、必要な食料品などはすべて神戸方面に向けられていて、場所によっては2、3日も救援物資が届いていないところがあったにも関わらず、です。

結局、その他の被害者のことなど何も考えない人たちが、我先にと自動車で押し掛け、道をふさいでしまっていたのです。
さすがに、この光景には声を出して怒りをぶつけてしまいました。
(車でうろうろしている時に余震が発生したら、更に二次災害が広がってしまいますし)

同時に、毎日のようにヘリコプターからの映像を提供していて、このような状況も把握しているはずのマスコミが、自家用車での外出を控えるようにアナウンスしはじめたのは、震災後から一週間近くたってからのことだったと記憶しています。

「公共の電波」というくらいなら、どうしてそういった事態を未然に防ぐことができなかったのか?
先に書いたヘリコプターの活用方法も含めて、そのときのマスコミの行動には納得行かない部分が多々残っています。

相変わらず、空には取材用と思われるヘリコプターが飛び交っていましたが、中にようやく自衛隊のものと思われる濃緑色の大型ヘリコプターが飛ぶようになっていました。ただ、なぜだか理由はいまだに分からないのですが、その中に機関砲や対戦車ミサイルなどを装備した「攻撃ヘリコプター」が飛んでいたのが非常に気になりました。


そうこうしているうち、やっと当時の作業場所に着きました。
幸い、建物はびくともしていなかったのですが、天井の板ははがれ落ち、壁にも大きなひび割れが入っていました。
当然、机の上のものはあちこちに散乱し、何がどこにあるのか分からない状態になっていました。
(後で分かったことですが、1/17、18と仕事先の人たちが片づけた結果が、筆者の見た状態だったのだそうです。
 直後はもっとすごかったわけです....)

そして、何よりびっくりしたのは、地震の揺れの影響で何とホストコンピュータが横倒しになってしまったこと。

畳八畳から十数畳の部屋に鎮座しているホストコンピュータが横転してしまったわけですから、ちょっとやそっとでは復旧させることはできません。
ただ、だからといって全国展開しているコンピュータシステムを何日間も止めるわけにも行かないので、できるだけ早くコンピュータを復旧させるべく、さまざまな内容が検討されていました。


実は、その仕事先でもびっくりするような光景を目にしてしまいました。
筆者自身をはじめとして、その場に来ていたメンバーはみんなポロシャツやトレーナー+ジーパンという、非常に動きやすい格好で来ていました。
(後かたづけなどすることを考えると、スーツやネクタイ云々と言っている場合ではありませんからね)

ただ、その中で2、3人、客先のややベテランの女性のメンバーだったのですが、毛皮のコートを着て、胸にはかなり大きなシャネルのロゴ入りペンダントをして、会社に来ているのを見かけました。
さすがに翌日からはやめたようですが、正直、一体何をしに来たのだろうと思うことしきりでした。

後日、某テレビ局の女性アナウンサーが、同じように毛皮のコートを着てブーツで被災地に取材に行ったと言うことで大変なバッシングを受けましたが、それよりもちょっと度を超しているのではないかと思いましたね。


ともあれ、その日は食料や飲料水などをお渡しした上で、できる範囲での片づけなどをやって大阪に帰ってきました。
行く前はさんざん葛藤したのでしたが、やはり現場を実際に見て、さまざまなことを肌で感じられた分、行って大正解だったと実感しました。


この日の時点で、被害者は二千五百人を越え、倒壊した建物の下敷きになった人たちの救出活動が急ピッチで進められていたようでした。
その中で何よりも明るいニュースだったのは、スイスから「救難活動犬」が派遣され、がれきの下敷きになっている人たちを探しだしはじめたというニュースでした。
頭数こそ少なかったものの、このような緊急事態の中、ものすごくポイントを抑えた救援に感心することしきりでした。

以降、日本でも「救難活動犬」の育成が急ピッチで進められたと聞きます。




1月17日の記憶(その1)

今日この日付、最近ではテレビで取り上げられる機会もめっきり少なくなってきましたが、筆者のように以前から近畿に住む者にとっては、決して忘れることのできない日付になっています。


早いもので、阪神淡路大震災(阪神大震災)から15年が経ちました。
直接の被害こそなかったものの、実際にかつてないほどの大災害を経験し、直後に被災地に入った経験を持つ筆者としては、この15年間でだいぶ記憶も薄れてきた部分があります。

そこで、記憶が薄れないうちにあの日の記憶を書き留めておき、大災害が起こった場合の現状や(筆者自身が感じた)問題点を、ご覧の方と共有できればと思います。


なお、なにぶん記憶に頼っているので、事実と若干異なる部分があるかもしれません。
また、特にマスコミの報道内容などについては、筆者がテレビなどを見た範囲の内容ですので、現在公になっている情報とは異なっている場合もあります。ご了承ください。





1995年1月17日(火)
 
(午前5時46分)
だいたい、筆者は早起きが苦手なのですが、その日に限ってどういうわけか非常に早い時間に目が覚めていました。
今考えると、一種の「虫の知らせ」だったのかもしれません。

休みの翌日(当時、成人の日は1月15日に固定されていたので、1月16日は振替休日でした)でかなり遊び疲れていたので、もう一眠りしようとうとうとしていたときのことです。


突然、地面の方から「ダダーン」というものすごい音がして床が抜けるような感覚が起こったかと思うと、すぐにものすごい横揺れが起こりました。例えて言うと、大きなお盆の上に載せられて前後に揺さぶられているように、揺られている方向がはっきりと分かるような、そんな大きな揺れでした。

多少驚いて静まるのを待っていたのですが、かれこれ30秒くらいたっても揺れはおさまりません。
天井につり下げてあった蛍光灯が完全に横を向くくらいまで激しく揺れていたので、これはただごとではないと思い、約2分後、揺れが完全におさまってから、あわてて家の中を点検して回りました。

壁や床にはひびも入っておらず、電気も水道も通っているようです。
幸い、ガス漏れも発生していませんでした。


筆者の実家でも比較的地震は多く、時に家が傾くくらいの規模のものもたまに発生しています。
ただ、さすがにあんなものすごい地震は今までかつて経験したことがなかったので、果たして何が起こったのかと思いテレビをつけてみると、しばらくしてから
 「大阪で震度4。震源地は東海沖」
というテロップが流れはじめました。

震源地が東海沖で、大阪であれだけ揺れたのだから、ひょっとしてあれが「東海沖大地震」だったのかと思い、情報を集めるためにしばらくテレビを見ることにしました。

しばらくたってから、在阪のテレビ局が自社近辺(大阪市内)の被害の様子をレポートしはじめました。
歩道の敷石にひびが入っていたり、ビルの窓ガラスが割れるなどの被害は発生していたようでしたが、その時点で分かっている範囲で、特に大きな被害が発生しているという情報は流れていませんでした。


【経験者談1】
震源地にほど近い兵庫県西宮市に住んでいた会社の同僚の話では、揺れが起こる直前に稲光のような光が走ったそうです。
後日あるテレビ番組を見ていたら、大きな地震の前の稲光というのは、科学的にも立証されている現象なんだそうです。

【経験者談2】
また別の人の話では、揺れが起こる前に特有の臭い(ガス?)が一面に立ちこめていたと言います。



(午前8時)
 
大阪方面ではさほど大きな被害が出ていないという報道だったので、いつものように勤務先に向かおうと家を出ました。
町並みもいつもと同じ、通勤風景もいつもと同じだったのですが、さすがに行き交う人たちは不安げな表情を浮かべていましたし、歩道の敷石には大きなヒビが入っていたのを記憶しています。

当時、筆者は阪神電鉄で兵庫県西宮市に通勤していましたが、最寄りの阪神電鉄の駅に着いたところ、電車は完全に止まっていました。
駅の電光掲示板のテロップでは
 「地震による被害のため全面運休しています。復旧のめはたっておりません」
とのこと。
よほどあわてて表示したと見えます。

東海沖が震源の地震が起こったのに、何で神戸方面に行く電車が止まるのかと不思議に思いましたが、仕方がないのでいったん家に引き返し、しばらく様子を見ることにしました。


しばらく家でテレビを見ていると、だんだんと実態が明らかになってきました。
震源地は東海沖でなく兵庫県西宮市の沖合で、神戸方面に多大な被害が出ている旨、報道の内容がだんだんと変わっていきました。


(午前10時)
 
家でテレビを見ていると、やがて会社から呼び出しの電話がかかりました。
幸い、筆者の家からは自転車で行ける距離だったので、早速自転車で会社に向かいました。

会社に向かう途中、大通りに面した大手商社ビルの窓ガラスが粉々になっていたり、道路に小さい亀裂が入っていたりしているのを見て、やはりものすごい揺れだったのだということを実感しました。
道路には車があふれ、普段の大阪市内では想像もできないくらい渋滞していたのを記憶しています。


会社に着いてから、出てきていたメンバーと同僚の安否確認作業を手分けしてやりました。
大阪近辺に住んでいるメンバーとはすぐに連絡が取れたのですが、やはり西宮や神戸方面に済んでいるメンバーとは電話さえ通じない状態でした。

テレビでは、ぼちぼちヘリコプターから写し出された映像なども流されていましたが、神戸市内からはところどころから黒煙が上がっていました。
震災があった時間は、朝食の準備にはまだ早すぎる時間なのにと思っていたら、混乱に乗じて倒壊した家々に火を付けて回っている輩がいるとのこと。

なんだかやりきれない気持ちを抱えながら、安否の確認作業を続けました。


 
(午後2時)

大阪市内の別の事務所(地下鉄でなら15分もあれば着くところなのですが、大阪市内の幹線である地下鉄・御堂筋線が止まっていたため、徒歩で2時間近くかけて行きました)の片づけを手伝ったりしていましたが、お昼前になって、あの阪神高速道路の高架が横倒しになった映像が流れてきました。

道路が抜け落ちて今にも下に転落しそうな車、倒れた高架の下敷きになってつぶれた車の映像が次々と流され、被害のすさまじさを物語っていました。
当時、筆者の部下だったメンバーが倒れた高架のすぐ近くに住んでいたのですが、その時点ではまだ一切連絡が取れていない状態でした。

当時の筆者の作業場所にも何回となく連絡を取ってみたのですが、いっこうに電話がつながりません。
聞いたところに寄ると、各地から被災地への電話が集中していて、回線がほぼパンク状態になっているとのことでした。

被災地周辺には同僚も何人か住んでいたので、部下の安否同様非常に気がかりでしたが、それでも神戸方面への道路はどこも渋滞で、しかもJR/筆者鉄とも完全に止まっているとのこと。電話も全くつながらない状態であれば、確認のしようがありません。

「まあ大丈夫だろうという」楽観的な考えと、「あれだけの地震だったのだから、ひょっとして....」という不安が交互に頭をよぎり、あっという間に時間がたっていきました。


また、このころになると取材と思われるヘリコプターがひっきりなしに飛び回るようになっていて、爆音が絶えず上空を通り過ぎていくのが分かりました。

後になって聞いた話ですが、当時民主化されたばかりのロシアから
「日本には、(消火活動をするための)ヘリコプターは1台もないのか?」
とイヤミを言われたそうです。

その当時も、そして今も、非常にもっともな話だと思っています。
特に火災による被害も大きかった神戸市長田区では、消防車の数がまったく足らない上に、火災現場から給水地点までの距離があまりに離れすぎていたため、ほとんど消火活動が進まない旨テレビが報道していました。

結果的にそれが原因で火災の被害が大きくなったのでしたが、そういった情報はきちんと周辺の消防局や自治体、自衛隊に伝わっているのか、どうして今ある資材を有効に活用できないのかといったいらだちを覚えながら、テレビを見ていた記憶があります。

テレビ局が何社もヘリコプター飛ばして、あちこちのチャンネルで同じ映像を流す必要はまったくなかったわけですからね。

どこか1社が代表で画像を流して、他社のヘリコプターを消火用に回すなどできたでしょうに。
「報道」を大義名分にしていたものの、本当に自分たちがやるべきことを考えていたのだろうかという疑問が残ります。


(午後8時)

会社での安否確認作業や各種応対も一段落し、何とか家に帰り着くことができました。

テレビでは通常の番組をすべてつぶして、神戸方面の被害の様子を流し続ける番組が組まれていました。
その日の夜の時点で死者5百名余り、行方不明者は数千人に及んでいることが分かり、被害は更に広がりそうな様相を呈していました。

同時に、電気・ガス・水道といった「ライフライン」が完全に寸断されており、一部カセットコンロなどで暖を取ってはいるものの、余震の心配があるため石油ストーブなどは使えない状態のようでした。

この時点でも、相変わらず被災地への電話はまったくつながらない状態でしたが、幸い大阪市内からそれ以外の場所への電話連絡は問題なくできたので、実家を含めあちこち知り合いのところに「生きとるで!」と安否を知らせて回っていたのを思い出します。



(午後10時)
 
このころになって、テレビでは「XX大学の地質学専門の先生」とやらが頻繁に登場し、淡路島から神戸近郊には活断層があり、いつ大地震が起こってもおかしくなかった状態だったと、もっともらしいことを言っていました。

事が起こってから取って付けたように言うのは簡単なことでしょうが、どうしてそういった重要な情報を、市民はおろか自治体も知らなかったのでしょうか?どうしてそういった情報を、事前に有効に活用させることができなかったのでしょうか?

もっとも、この時の対応が教訓となって、有珠山や三宅島の噴火を事前に予知し、被害を最小限に食い止めることができるようになったわけなのですが、それにしても支払った代償はあまりにも大きかったように思います。
また、自治体や消防署、警察などが、いざというときにはお互いに情報を交換しあい、それぞれが適切に動けるような体制が作られたのもこの時からです。

その意味からいうと、この1995年1月17日という日付は、本当の意味で「日本でのリスク管理が始まった日」だったと言えるのではないでしょうか。


ともあれ、この日はなかなか寝付かれず、3、4時間くらいしか睡眠をとれなかった記憶があります。


 


心に響く、絶品のCMです!(T_T)

こんばんは、筆者です(v.v)
せっかくの連休だというのに、仕事&所用で、大阪市近辺のみをウロウロして終わってしまいました・・・

ところで、昨日くらいから近畿地区のみで放映されている関西電力さんのイメージCM、2010年の早々ではありますが、今年一番の傑作ではないかと思うくらい、なかなかの秀作なんです!
近畿以外にお住まいの方も、是非ともご覧になってください!
http://www.kepco.co.jp/media/cm/index_3.html


15年前、そう、あの阪神淡路大震災は筆者も実際に経験しましたが、しばらく神戸近辺では、電気をはじめとしたライフラインがすべて寸断されていたんです。

当時、筆者は震源地に近い西宮で仕事をしていて、ライフライン復旧のために懸命に作業されている関西電力の社員さんの姿を生で見てきたし、(応援で来られていた)遠くは東北電力や北海道電力の社員さんさえもが夜を徹して頑張っている姿を見て、本当に心から頭の下がる思いを抱きました。

CM中にあるように、生死をかけたギリギリの状況の中、本当に心が折れかけた真っ暗な世界の中で、灯る明かりがどれだけ心強いものか!
筆者が個人的に好きなアンジェラ・アキの曲の歌詞とも相まって、(なぜかは知りませんが)本当に涙が出そうになりました・・・


今週末には阪神淡路大震災に関連する投稿をさせていただく予定ですが、筆者のような経験者にとっては本当に心に響く、絶品のテレビCMです!




続きを読む

阪神電鉄・本線(その12)

○御影(みかげ)駅(兵庫県神戸市東灘区)
○石屋川駅(兵庫県神戸市東灘区)
○新在家駅(兵庫県神戸市灘区)

この辺り駅が密集してまして、また10分ほど歩くと、次の御影駅にたどり着きます。
15年ほど昔は特急も停まっていたので、当時阪神電車で通勤していた筆者も名前は知っていたんですが、最近は魚崎駅にその座を奪われて特急も停まらなくなってしまったようで、すっかり影が薄くなっています・・・

ところでこの御影という町、芦屋と並ぶ高級住宅街でもあるのですが、もう一つ駅名からもお分かりの通り、墓石や建材としても有名な「御影石」(花崗岩)の産地だったんだそうです(v.v)
今や山の手は、高級住宅街となってその面影をたどることもままならないんですが、次の石屋川駅など、辛うじて地名でその跡を残すのみとなっていますね。

御影駅のホーム下には、筆者がけっこうお気に入りの喫茶店「ミンガス」さんがあります。
正月早々営業されていたんですが、ここのカレーはスパイスが利いて絶妙の辛さ具合だし、値段の割にボリュームもなかなかのもので、特にお腹のすいた時のランチにはお勧めですよ~!(^o^)
御影駅の近辺でお勧めのカレーショップ、ミンガスさんでございます(v.v)


御影駅を出てからしばし沿線を歩きますが、住宅街・商業地帯が延々と続き書くべきネタがありません(T_T)
スタートが遅かったのもありますが、とうとう日が暮れて辺りも薄暗くなってきます・・・

ということで、一応の証拠写真でこちらが石屋川駅(v.v)
20100103-11.jpg

と、ここで見かけたのがこの道路標識。
おお、とうとう「有馬」や「三宮」なんて文字も現れてきたやないですか~(^o^)/
すごくざっくりした案内板ですがA(^^;、とうとう「姫路」や「有馬」の文字も見受けられます・・・

正月三が日のせいか収穫の少ない1日の中、これが一番の収穫でしょうか・・・


ともあれ、もうほぼ真っ暗な中で新在家駅に到着します。
こちらも阪神淡路大震災の時にはボロボロに崩壊した映像が印象的でしたが、もうその面影すらありません。
20100103-14.jpg



<本日(2010/01/03(日)の実績>
・本日の実績   :12,014歩(9.6km)
・2010年1月の実績:18,874歩(15.1km)
・2010年の実績  :18,874歩(15.1km)

・訪問済路線数  :22路線/137路線(16.1%)
・訪問済駅数   :198駅/1,685駅(11.8%)



テーマ:ウォーキング
ジャンル:ヘルス・ダイエット

タグ:阪神電鉄 本線 御影 御影石 石屋川 新在家 阪神淡路大震災

阪神電鉄・本線(その11)

あけましておめでとうございますm(_ _)m

このブログを書き始めて、初めての年越しになります。
昨年は、西は神戸~東は京都まで自分の足で歩いたわけですが、普段は電車で通り過ぎるだけの街々にもすごく愛着を感じられたし、歩いてみて初めて知ったこともたくさんあって、なかなか充実していました!(^^)

今年も、どこまで歩くなどという目標は特に定めず、いつものように近畿の街をブラブラする様子をお伝えできればと思いますので、どうぞよろしくお願いしますm(_ _)m

あ、あと肝心のダイエットの方は・・・現状維持以上のものが出せれば、それはそれでOKかとA(^^;


さて、前置きが長くなりましたが、2010年の新年第一回は阪神電鉄・本線を歩きます。
昨年秋以来なんですが、あれから高架化工事が進んで、前回のようにあちこち遠回りしなくて済むことを祈ります・・・


○住吉駅(兵庫県神戸市東灘区)

前回の最終到着駅・魚崎駅からのスタートになりますが、さすがに各駅とも(西宮戎神社への初詣で賑わう西宮を除き)、正月3日は人出も車も少ないですねぇ~
正月3日だからか、魚崎駅の駅前は人出も車も少ないですねぇ~


魚崎駅から5分ほど歩くと、次の住吉駅が見えてきます。
ところでこの辺り、「東区」という地名からも分かるように、京都・伏見と並んで、昔ながらの酒どころの一つなんです!

あいにく、筆者は日本酒が大の苦手(→悪酔いして社会復帰に二、三日かかります・・・)なのですが、白鶴さんや菊正宗さん、剣菱さんなど有名酒造メーカーの記念館もあるということなので、ちょっと沿線を外れて寄り道してみます(v.v)。


さすが本場だけあって、ちょっと道を歩くだけで、酒麹工場やよく耳にするブランドの看板が目に入ります。
さすが日本酒の本場、酒麹の工場や有名な酒造メーカーの看板がよく目につきますさすが日本酒の本場、酒麹の工場や有名な酒造メーカーの看板がよく目につきます

金網越しには白鶴酒造の工場が見えますが、かなり巨大なタンクがいくつも並んでいて、なかなかの壮観です!(@_@)
筆者だったら、おそらく二日酔いで一生社会復帰できないであろう?量の日本酒が、あの中に眠っているんですねぇ~
白鶴酒造さんの巨大なタンク(@_@)


少し道を裏手に入ると、今度は菊正宗酒造さんの建物が並んでいます。
とりわけ、(何の建物かは分かりませんが)石造りの風格ある建物が印象的です。

受付の地図で案内されていたので、肝心の記念館も訪れたのですが・・・当たり前ではありますが、本日は年末年始で休館日A(^^;
また日にちを改めて、寄らさせて頂きたいと思いますm(_ _)m
菊正宗酒造さんの敷地内にある、石造りの風格ある建物。


ちなみに、筆者も調べてみて改めて知ったのですが、「ワンカップ」でおなじみの大関さんは今津駅近辺、日本盛さんも西宮駅近辺・・・と、阪神本線の沿線には名だたる酒造メーカーの本社が集中してるんです。

ここまで来ると、さすがにすごいものがありますねぇ(@_@)



(「阪神電鉄・本線(その12)」に続く)


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